期待と信頼(他人への期待を手放すには その3)
心理学講座の「期待」に関する事で、再び質問をいただきました。
「思いに報いていく、というのはどういう意味でしょうか?」
期待に応える
思いに報いる
さて、この二つにどのような違いがあるのでしょう?
実際の行動としては、この二つは非常によく似ています。
しかし、まさに「似て非なるもの」といえるでしょう。
本物のカニとカニカマ位の違いはあるかもしれませんね。
えっ、わかりにくいって?
では、説明します。
期待に応える、というのは根っこにあるものが「欲求」から来ているのに対して、思いに報いるというのは、根っこが「愛情」から来ています。
つまり、その行動の根っこがどの感情を基点にしているかで、行動や結果が同じでも、感じ方は全く変わってしまうわけです。
期待に応えても、心が満たされるわけではなく、期待した側は特に得られるものはなく(当たり前と処理されますからね)、応えた側が得られるのは開放感だけです。
しかし、思いに報いたときには、お互いの心が愛情で満たされます。
例えば、母親の愛に報いるために、子供が幸せになる。
これは、自分が幸せになる事が前提で、自分が幸せになる事で、親の愛に報いる事ができるわけです。
母親の期待に応えるために、子供が幸せになる。
これは、自分の幸せを考えた場合、親の期待から外れてしまう事もあるわけです。
逆に、親の期待に応えるために、自分の幸せを我慢しなければいけないシチュエーションもでてきますよね。
親が「結婚が幸せ」と思っていれば、結婚していなければ、どれだけ社会的に成功していても親の期待には応えていない事になりますし、自分を不幸にする相手と結婚しても、親にとっては「結婚=幸せ」になっている場合は、期待に応え続ける側は、そうとうの我慢を強いられるわけです。
これって、幸せとはいえませんよね。
期待に応えようとしてしまう。
ここに愛情は存在しません。
「期待してるよ」
と言う人がいますが、それが本当に「期待」であれば、相手を追いつめていきます。
私もずいぶんと追いつめられたものです(笑)
でも、言われた側は、それが期待とわかっていても、期待に応えようとしてしまうものです。
嫌われたくないですし、愛されたいですしね。
これが「期待」が欲求を基点にしている、ということなんです。
ですので「期待」という言葉を使う人には注意してください。
結果追いつめられますから。
また、どんなことでも「期待」を感じてしまう人は、自分をチェックした方がいいかもしれませんね。
そして、愛に報いる場合は、期待ではなく「信頼」ですから、その信頼に応えていく事そのものが「思いに報いていく」事になるわけです。
ただ、いい悪い関係なく、反応が返ってきます。
良くも悪くも、相手の期待を裏切りますからね。
ですので、非難されたりする事もあります。
それは、「期待通りでなかった」事に対してであって、非難する人自体が「信頼」ではなく「期待」であることの証明でもあります。
思いに報いていけば、信頼している人からは思いもよらない評価をいただく事ができます。
その信頼に報いる行為を貫いていけば、じわじわと回りに浸透していきますからね。
結果が出るのが遅いだけのことです。
皆さんも、相手に対する思いが「期待」なのか「信頼」なのか、一度見つめてみてもいいかもしれませんね。