共感する危険性
先日、とある方のブログで、このような言葉を見つけました。
共感を軽率に扱わない
共感を仕事にしているカウンセラーにとっては、なかなか興味深いお話でした。
「共感する」ことと「共感的理解を示す」ことは同じではありません。
共感することは、自分の経験と相手の経験を一括りにすることで、それ自体が問題ではないですが、相手が求めていることが「共感」なのか「理解」なのかによって、この行動はすごく問題になってくるからです。
カウンセリングをしていても、共感して欲しいだけなのか、理解をして欲しいのか、そこを見極めるのって、やっぱ難しいんですよ。
一つ言えることは、私のクライアントさんたちは、共感よりも理解して欲しい人たちが集まっていますね(笑)
共感は心の痛みを緩和することはできるわけです。
もちろん、理解も同じことができます。
ですが、じゃあこれからどうしようか、といった時に、共感からは応えが出しにくい部分があるわけです。
理解の方が、まだ次につながる何らかの応えが導きやすいんですよね。
例えば、子供が病気で苦しんでいる。
当然病院で治療を受けるわけですが、子供が注射を痛そうにしていたり、ベッドから動けなくてぐずったりしているのを見て、かわいそうと思ってしまうことなんて、よくあると思います。
ここで共感すると、子供が抱えている痛みや苦しみを直視することができなくなります。
なぜなら、自分も痛いし苦しいですから。
一方、理解の場合、痛いのも苦しいのも理解できるわけです。
では、病気の治療をしないほうがいいのか?
そんなことはないですよね。
もちろん、医者や看護師の当たり外れというのはあります。
実際に娘ちゃんが喘息で入院した病院は、医者も看護師も大ハズレな病院だったらしく、母親も娘ちゃんも、病気ではなく、人によって精神を削られていくわけですよ。
大切なことは、どこまで患者やクライアントのために行動できるか、ということ。
ただし、無理難題を言ってきたり、してくれて当然という患者やクライアントには、してはいけません。
こういう人たちはモンスターですから、やっても意味がないんですよね。
そうでない人たちをモンスター化させないためにも、「共感的理解」によって、困っている人や辛い人に寄り添っていけるかどうか、というのが、カウンセラーの使命なのでしょうね。
まだまだ未熟な私です。
もっともっと勉強しないとね。