「しんじつ」について
友人から、DVDを借りました。
内容は、占守島の戦いが舞台のものです。
まあ太平洋戦争のお話なわけです。
いろんな人とかかわっておりますと、時たまこういった太平洋戦争時のお話を聞くことがあるわけです。
例えば、クライアントさんのおじいさんが戦争時パイロットで、硫黄島から最後に飛び立った飛行機を操縦していたとか、上海で生まれて、戦中に日本に引っ越してきたとか、祖父が南京在住の兵隊さんで、実際の南京事件を生で体験したとかね。
歴史に書かれてあることって、ほとんどが事実が書かれているわけです。
戦争があった。
これは事実なんですよ。
でも、そこでどんなことがあったのか。
本当はどんなだったのか。
これは事実ではなく、真実なんですよね。
心の問題を取り扱う時も、過去にあったことは「事実」なわけです。
父親に殴られた。
かまってもらえなかった。
傷つけられた。
これらは「事実」として、心に記録されます。
ですが、そこにある「真実」は記憶されないわけです。
なぜなら、「自分の主観」によって、真実は記憶されるからです。
親に殴られた
きっと親は私のことが嫌いなんだ。
だから僕を殴ったんだ。
親に殴られた、というのは事実であり記録なわけですが、そのあとの「僕が嫌い」というのは、自分自身の主観による記憶で、これが自分にとっての「真実」になるわけです。
ですが、これが正しいとは限りません。
なぜなら、そこには「心実」が抜けているからです。
事実を変えることはできない。
でも、自分の真実を疑い、なぜそうしなければいけなかったのか、なぜそうなってしまったのかという「心実」に到達しない限り、自分の中の「真実」に影響されてしまうわけです。
一番簡単な例でいうと。
子ども時代、ウニを食べたらまずかった。
ウニが嫌いになった。
大人になって、ウニを食べたら、すごくおいしく感じた。
まあ食べず嫌いというのはよくある話ですし、大人になれば味覚が変わることもあるわけです。
でも、自分がウニをおいしいと感じられるくらい成長した、という事実がここにあり、そして、子供時代なぜウニをまずいと感じたのか、という「心実」が、ここにはあるのかもしれません。
皆さんが「真実」だと思っていること。
それは、本当に真実なのでしょうか?
自分の心の中にある「心実」に、触れてみるのもたまにはいいかもしれませんよ。