褒められたい心理
人には承認欲求というのがあります。
誰かに認められたい、ほめられたいという欲求ですね。
確かに、誰かに認められたりほめられたりしたら、うれしいものです。
子供時代というのは、親からほめられたり認められたりすることで、自己を形成していったりしますからね。
で、問題は大人になってから。
当然のごとく、大人になっても承認欲求というのはあるもので、誰かに認められたいから、ほめられたいからと行動する人はいるわけです。
それ自体には何の問題もないわけです。
が
ほめられるために、認められるために行動する大人というのは、正直なところ大人らしくない行動をとることが多いんですよね。
大人の場合、自分が行動した結果、他人に認められたりほめられたりすることはあるわけです。
つまり、目的は別にあって、ほめられたり認められることは行動の結果としての副産物でしかないわけです。
ですが、ほめられたい、認められたい欲求で行動する人は、ほめられること、認められることが目的となってしまいますので、結果が伴ったとしても、自分自身が満たされなかったりします。
また、誰かにほめられたい、認められたいの「誰か」にこだわってしまうと、「誰か」以外からいくらほめられたり認められたりしても、欲求が満たされることはないわけです。
たとえば、お母さんにほめられたいとか、彼に認められたいとかね。
ただ、勘のいい方はおわかりだと思いますが、承認欲求というのは、他人から与えられるだけでは満足しないわけです。
他人と同時に、自分自身も同じだけ承認をしなければ、結果として受け取ったことにはならず、承認欲求は満たされないんですよね。
たとえるならば、他社からの承認を受け取ることのできる器を、自分自身が持っていないとだめだ、というわけです。
1リットルの水を受け取るためには、1リットル以上の水が入る容器が必要ですよね。
1リットル分の承認を与えられても、自分の持つ器が500ミリリットルしかないと、500ミリリットル分の承認をこぼしてしまうわけです。
なぜこんなことが起こるのかというと、先ほどのお話のように「誰か」にこだわっていたり、自己価値が低い場合などにも、受け取る器が小さくなってしまいます。
「ほめられたい、認められたい」欲求が強い場合については、容器に穴が開いていて、いくらそこに水を注いでも全部こぼれてしまう、という感じですね。
承認欲求は、まず自分が自分を承認できた分しか承認されません。
そして、大人の場合は、自分の行動の結果、承認が後からついてくるものであって、決して承認のための行動をとっても、承認は得られないということを、忘れないでくださいね。