2021.5.24 心理学講座 無意識と自己嫌悪について
同じ失敗を繰り返す、というのは、誰にでも良くあることなんですよね。
ただ、同じ失敗を繰り返さないように意識すると、なかなかやめられない、とういのもよくある話です。
ここで、皆さんに質問です。
無意識って、どうやってできあがるのでしょう?
人間が意識できないもの、意識していないものや事柄をだいたい無意識といいますが、実はこの無意識の殆どは、昔は意識していたことなんですよね。
たとえば、生まれて初めて自分の足だけで立ったとき。
たとえば、初めて自転車に乗ったとき。
初めてチョコレートを食べたとき。
初めての字を習ったとき。
人はこの「初めて」のときは、すごく意識しているんですよね。
ところが、これが慣れてきて「初めて」でなくなってくると、これらのものは次第に「無意識」の中へと取り込まれていくわけです。
たとえるならば、真珠の養殖をするとき、まず陸の上で貝に真珠の核となるものを植えつけます。
それを海の中につるして沈めておくんですよね。
陸の上や海の上は特に変化は見当たりませんが、海の中では、貝の中で真珠が作られていくというわけです。
無意識というのは、この「海の中」と似たような感じで、本人が全く意識していなかったとしても、昔意識していたものをそのまま引き継いで、無意識の中で成長させているような感じですね。
すると、意識していた頃に強い自己嫌悪を感じた、とします。
その自己嫌悪にだんだん慣れてくると、自己嫌悪そのものがだんだんと無意識の海の中へと入っていくわけです。
無意識の海の中へ入っていった自己嫌悪は、その中で活動を開始するわけですね。
そうすると、「変わらなきゃ」と意識で思ったとしても、無意識の中で活動している自己嫌悪がある限り「変わらない」状況を作り出して、自己嫌悪を成長させていくわけです。
そして、成長した自己嫌悪は、本人が気づかない間に、無意識全体へと影響を与えていくわけです。
環境汚染とよく似ていますよね。
では、皆さんに質問ですが、自己嫌悪は全くない方がいいのでしょうか?
皆さんそれぞれにお答えがあると思いますが、私の答はこうです。
自己嫌悪は、ないと困るものである。
しかし、ありすぎても困るものである。
もし自己嫌悪がない人がいたとします。
この人が失敗したり、誰かを傷つけたりしたとして、もし自己嫌悪がなかったら、この人は反省するでしょうか?
しないんですよね。
今度は逆に、自己嫌悪がありすぎてしまったらどうなるでしょう。
それはまるで、ラーメンにこしょうを一本入れて食べるようなもので、全く自分にやさしくはありません。
大切なのは、「自己嫌悪を自分にあった適量にすること」なのです。
しかし、多くの人は、自己嫌悪を使って、自分をいじめたり幸せにしないという目的を達成しようとしているところがあります。
この「自分を幸せにしない」というのも、昔意識にあったものが無意識に沈んだものなのでしょう。
ですので、本当の問題は自己嫌悪にあるのではなく、「自己嫌悪を使って自分を幸せにしようとしない自分がいること」なのです。
繰り返し失敗してもかまわない。
うっかりミスをすることもあるだろう。
自己嫌悪を感じることも当然あります。
でも、これらと「自分を幸せにしないこと」をイコールにしてはいけません。
繰り返し失敗しても、ミスをしても、自己嫌悪があっても、人は幸せになる権利を持っていますし、幸せになれます。
その「幸せになる権利」を放棄する理由に、自己嫌悪は使われやすいんですよね。
そして、「幸せになる権利を放棄した理由」もまた、無意識の中にあるわけです。
先ほどのたとえでいうなら、自己嫌悪は貝で、「幸せになる権利を放棄した理由」が真珠の核となる部分にあたるわけです。
まあ真珠がどれだけ成長したか、陸に上げて貝を開いてみないとわからないように、無意識を理解しようと思ったら、まず意識上に持ってきて、中を開いてみないとわからないということですね。
皆さんの心の中には、どのような真珠が養殖されているのでしょうね。
貝の中を覗いてみたくなったときは、問題を解決するチャンスが来た、ということでしょうね。