2021.5.6 ホープシック
以前、読売新聞に「希望という名の病気」(鵜飼哲夫)という記事がありました。
今回はその記事にまつわるお話です。
例えば、競馬で高配当の馬券に三連単、三連複という馬券があります。
この馬券は当たると100万くらい配当が出ることもあります。
この馬券は、1位、2位、3位の馬を全部当てると三連単、順番はあっていなくても三頭の馬を当てるのが三連複となり、どちらも万馬券が出やすい仕組みになっています。
ただ、この馬券、万馬券が出る確率はこれ確率は0.53%(2013年当時)なんです。
要するに、そう簡単に当らないわけです。
ところが、買う人は皆こう言います。
「200人に1人は当たんねん」
つまり、自分は当たるって思ってるわけです。
いつか万馬券が自分に当たる順番が回ってくると希望を持っているわけです。
そして、その希望を追いかけて、次こそは、次こそは、次こそはと、馬券を買い続けていきます。
そしてどんどんのめりこんでいって、最終的に抜けられなくなってしまうわけです。
これは依存の一つのパターンでもあります。
今回はギャンブルを例にした話でしたが、ギャンブルには「次こそはっていう希望」が隠れています。
よくスッテンテンになって競馬から帰る人は「あと1レースあれば」って皆思うものです。
これも希望の一つであり、希望を持った結果でもあります。
しかし、結果としてそれはすごく大きな絶望になります。
この絶望を緩和させるため、そして絶望という感覚から逃れるため、「○○さえあれば」みたいな表現を使います。
例えば、これを恋愛に当てはめてみれば、浮気性の男性やDVの男性に悩まされている女性も、似たようなパターンかもしれません。
いつかはわかってくれるだろう、いつかは気づいてくれるだろう、いつか私だけを愛してくれるだろう。
このような感じで、終わりのない「いつかは」に振り回され続けてしまうのかもしれません。
カウンセリングなどでは、「パートナーさえいれば!」とか、こんな話がよくあるわけですが、本当にパートナーがいれば必ず幸せになれるのか、というのは、本人ですらわからないわけです。
パートナーがいても不幸な人はたくさんいますし、パートナーがいなくても幸せな人もたくさんいます。
「~があれば」「~さえなけえれば」というのは、「希望」にしがみつくことで、真実から目を背けてしまう行為なのかもしれませんね。
そして、それはどっかで「叶わない」っていう無意識レベルのものが存在しているのかもしれません。
そうすることで、「希望」は「希望」のまま「~があれば」のせいにできますからね。
希望を理由に、心の成長を阻害してしまうこと、自分と向き合わないこと、私はこれを「ホープシック」と呼んでみたいと思います。
皆さんのまわりには、ホープシックになっている方はいませんか?