2020.11.8 心理学講座 自由って、なんでしょう?
自由は孤独であり、孤高である。
先日、友人と「自由」についての話になりました。
友人は「自由でありたい」という理由から、お勤めはせず、なんとかヒーラーで食べていこうと奮闘しているわけです。
しかし、彼の行動は、明らかに「自由を束縛する」行動をしているわけですよ。
これに気が付いた時、私はびっくりしました。
で、この友人に「自由の定義」について聞いてみたんです。
結果は、答えてくれませんでした。
自由でありたい
自由になりたい
そう考えることは、みなさんだってありますよね。
自由を意識するときは、今の自分が不自由であると感じた時です。
それは肉体的にも、精神的にも自由がない状態。
そんなとき、自由を求めるわけですよね。
で、いつも私が気になっているのは「自由の定義」です。
なぜなら、私個人の考え方ではありますが、本当の自由は
「好きにしていい」
ことではなく
「すべて自分の責任で選択し、自分の責任で行動する」
ことが、本当の自由と考えるからです。
そして、皆さんが求めている自由の多くは「制限された状況の中での自由」であって、完全な「自由」ではない、ということですね。
自由ではない、と感じたときに、人は自由を意識します。
しかし、自由でない状況であっても、当の本人が「不自由」を意識になければ、これは自由ともいえるわけです。
例えば、無人島でたった一人で生活する。
これはまさに自由ですよね。
何したって自己責任ですからね。
しかし、たくさんのお金を使って無人島を買い取り、そこに電気とガスを引いて、別荘を建てて暮らす。
ハタから見れば、この人はとても自由なように見えますが、実はちゃんと「制限」があるわけです。
電気や水道など、ライフラインが通じている段階で、社会という枠の中にいることになりますし、いくらお金にモノを言わせても、お金そのものの量にも制限があります。
お金と社会の制限内で自分のやりたいことをする。
これが皆さんがイメージする「自由」ではないかと感じるわけです。
ですので、
もっと自由になりたい=もっとお金が欲しい(お金があれば自由にできる)
となることだってあるでしょう。
でも、これが「自由になる」ことが目的なのに「お金を手に入れる」ことが目的になってしまうと、拝金主義に陥ってしまうわけですよね。
お金のあるなしは、ある一定のところまでは、自由に行動する「自由」を与えてはくれるでしょう。
しかし、お金そのものが、自分を自由にしてくれるわけではないのも、また事実なんですよね。
そして、特に不自由を感じている人は、当然ですが、今の自分に満足はしていないわけです。
それは、自分自身を成長させるチャンスでもあるわけですが、それをネガティブに考えることもあるわけです。
赤ちゃんが成長して、ベビーベッドが窮屈になっても、ベビーベッドから出たがらない。
さあ、この赤ちゃんが5歳になったらどうなるでしょう?
はたから見たら、まあ窮屈でしょうがない気がしませんか?
しかし、自由でありたい思いながらも、自分を束縛してしまう矛盾を抱えている人は、この「窮屈な場所」こそが、私にふさわしいと「決めつけている」人です。
この正体は、自己嫌悪なんですよね。
自由は、皆さんそれぞれの主観によるものと私は感じます。
Aさんにとっては、現状が不自由に感じても、Bさんにとっては、それはとても自由に感じる。
猫が箱や袋の中に入りたがるように、はたから見れば窮屈な状態でも、当の本人にとっては、居心地がいい自由な場所、なのかもしれません。
ただし、束縛や弾圧、ハラスメント、虐待やコントロールから解放されて自由になる、というのは、下手をすれば直接命にかかわることでもありますから、今回お話ししたこととは別の「自由」になります。
命を守るための「自由」ですからね。
皆さんにとっての自由
それは、必ずしも自分が求めているものではないのかもしれませんね。