2020.10.4 心理学講座 自由と制限
全く相反する言葉ですよね。
多くの人は自由を求めます。
それは当然のごとく、今の自分が制限されていると感じているからですよね。
では自由な人はどう感じているのでしょうか?
おそらく「俺は自由だ!」とは感じていないと思います。
なぜでしょう?
その前に、ちょっと言葉の意味を調べてみましょう
自由(Goo辞書より)
1 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「―な時間をもつ」「車を―にあやつる」「―の身」
2 勝手気ままなこと。わがまま。
3 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
4 法律の範囲内で許容される随意の行為。
制限(Goo辞書より)
[名]物事にある限界を設けること。また、その限界。「入会資格に―を加える」「医者に飲酒を―される」
こんな感じです、皆さんわかります?
私はさっぱりです(笑)
なんで辞書ってつまらない書き方をしているんでしょうね。
面白く書いている辞書もあるのかもしれませんけどね。
ここまで書いて、ちょっと疑問が出てきました。
なぜ制限が必要なのでしょう?
ここからが私個人の解釈になります。
制限をする理由はいろいろあります。
収拾がつかなくなったり、争いが起きたり、不平等が生まれたりと、いろいろな理由がありますよね。
なかでも、「守るため」というのが今回私がひっかけた部分です。
これはどういうことかといいますと、一番わかりやすいのがレッドデータブックです。
もっと簡単にいうと、うなぎですね。
ウナギはほとんどの方が食べたことがある日本の国民食ですよね。
でも、最近では乱獲と不漁で数が著しく減っております。
結果、ウナギを捕る量を減らして、ウナギが絶滅しないように守ろうという話になるわけです。
レッドデータブックって、守るための制限なわけですよ。
では、皆さんの周りにある制限はどのようなものでしょう。
その制限は自分を苦しめている制限なのか。
それとも、自分を守っている制限なのか。
両方あるのではないですか?
それは卵の中で成長したヒヨコが、「卵」という制限された世界から飛び出して行動の自由を手に入れるような感じかもしれません。
でも、卵の中にいる限り、ある一定の期間は安全なんですよね。
もしかしたら人は、自由を望みながらも「制限」という名の安全の中にいたいと思っている人がたくさんいるのかもしれませんね。
では、自由というのはどうなんでしょう?
私個人の意見ではありますが、私は自由を「自己責任において自分の意思で行う」と定義しています。
言い換えれば、「制限」は誰かの責任において、自分が行動できる範囲内だけで行うことであって、「自由」は、自分の責任において、自分が行動できる範囲内で行うことといえるかもしれません。
自分の行動範囲が大きくなれば、当然制限というカラは狭く感じますから、制限を破って自由になりたいと思うわけです。
それは当然のことですし、当たり前のことなんですよね。
3歳のころの行動範囲と、今の行動範囲を比べたとき、明らかに今のほうが行動範囲が広い人がほとんどなわけです。
それだけ、たくさんの「カラ」を破ってきたのでしょう。
なかにはカリメロのようにカラを付けたままに人もいるかもしれませんけどね(このネタがわかる人は、年配者ですね。笑)
自由な人が「自由だ!」と感じない理由、わかりましたか?
自由な人は、自分の中に「制限」を持つんですよ。
そして、その制限の範囲内で行動し、狭いと感じたら自分で制限のカラを大きくできるわけです。
自分の責任で行動できない人、しない人は自由ではありません。
これを私は「わがまま」や「傲慢」といっています。
なぜなら、制限というカラを破っているのではなく、制限の中で暴れているだけですからね。
ただ、自由を感じられない時には注意が必要です。
自由を感じられない時には制限があるわけですが、その制限が自分が作った制限なのか、自分以外の誰かが作った制限なのか、それを見極めることが必要です。
例えば、親から「あんたはダメな子なんだから」とずっと言われ続けてきた子供は、自分に「ダメな子」という制限をかけます。
そうすると、これが自分以外の誰かが作ったカラになり、今の自分を制限します。
一方、「俺はダメなやつなんだ」と誰も言っていないのに自分をそう扱ってしまうのは、自分自身が自分に制限をかけている状態になるわけです。
これ、両方同じ結果なんですが、扱い方が違うんですよね。
自分の中にある制限というカラがどのようなものか、一度チェックしてみてもいいかもしれませんね。
え、どうチェックすればいいかって。
それはカウンセラーさんに聞けばわかりますよ(笑)