自分は正しいと思い込む無意味さ
自分は正しい、みんなが(周りが)間違っている!
こう思っている人って、たぶん多いと思います。
これは、喧嘩をする時の心理でもあります。
正しさの証明。
私たちはこういう言い方をするのですが、自分が正しいのだから、間違っているのはそちら。
こう考えることで、相手に自分が正しいことを認めさせようとするのが、喧嘩の一つでありますよね。
ここで疑問が二つ。
正さの証明をしても、幸せになれるとは限らないということ。
もう一つ。
正しさって、必ずしも一つなのだろうか、ということ。
正しいことを証明することって、特定の範囲内では、大切なことでもあります。
しかし、正しいことを証明したからといって、必ずしも幸せになれるとは限らないんですよね。
別に、正しくないことが幸せなんだ、と言っているわけではないですよ、念のため。
正さの証明をするより、幸せの証明をしたほうが、自分を含めたみんなにとって、有意義なのではないか、と感じるわけです。
で、本題はもう一つのほうです。
ひとつの答えがあれば、あとは全部間違っていると思い込む。
全部間違っていたり、全部が正しいことだってありえるんですけどねぇ。
答えはひとつとは限らないわけですが、答えが一つあると、それ以外に答えがないと思い込んでしまう人が多いのかな、という感じがしないでもないです。
要するに、選択肢が狭いんですよね。
東京から大阪に行くのに、新幹線で行くと決めたと思ってください。
もし、新幹線が止まってしまったら、どうすればいいでしょう?
飛行機だって、バスだって、車だって、いざとなれば船という手もありますよね。
でも、選択肢が狭い人は、新幹線でいけないとなったら、大阪行きをあきらめてしまうわけです。
よくある話が、失恋したから、私はもう幸せになれない。
新しいパーットナーを見つければ、新しい未来が開けますよね。
試験に落ちたから、もう僕はだめなんだ。
それも、未来の選択肢の一つであって、すべてではないんですよね。
失敗を恐れる人や、人の間違いにこだわってしまう人、威圧的、高圧的な人は、柔軟性に欠けている、間違いを受け入れられない人たちなのかもしれませんね。
間違いを認められない人と、間違いを受け入れられる人。
人として、器が大きいのは、果たしてどちらでしょうね。